真言宗豊山派
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豊山派の主張

Vol.6

真言宗豊山派総本山長谷寺本堂の国宝指定に思う

真言宗豊山派総合研究院院長 加藤精一

<本堂が国宝に>

 平成16年10月に文化審議会より、わが宗派の総本山長谷寺の本堂(観音堂)を国宝に指定するべきであるとの答申がなされた。長谷寺の本堂が国宝になるのだ。まことに喜ばしいことである。これまでも重要文化財であったのだから日本の宝物であったことに代わりはないが、国宝となると、その価値が一段と高まるのである。
 国宝指定のきっかけは、平成15年3月の強風による倒木のために本堂の屋根の一部がこわれ、その修理のために文化庁がおこなった調査の結果であるという。屋根の修理は文化庁、奈良県、そして地元桜井市など各方面の手篤いご協力により、さらに加えて多くの豊山派所属寺院そして檀信徒各位の協力によって、平成16年3月には完成し、奉告法要も無事に成満したところに、この朗報である。時あたかも、新管長として鳥居愼譽猊下が平成16年11月9日に晴れの晋山式を控えてのことであるから、宗派の喜びはひとしおである。
 台風の被害がもとで調査が進み、国宝へというのであるから、まさに禍わざわい転じて福ふくとなるとはこのことで、さらに深く考えてみると、木が倒れたのも観音様のお心だったのかも知れない、とも思えるほどである。
 長谷寺学芸員の甲田弘明氏によれば、このたびの調査で本堂が、徳川幕府による大規模かつ代表的な寺院建築で、同時にわが国の観音信仰の中心的な役割を果たしているという点で、建築学史的、文化史的意義においても特別に高い価値をもっていることが判明したのだ、という。また、徳川三代将軍家光の寄進で、御所ごしょや江戸城など重要な建物を造営している中井大和守やまとのかみの建築で、当時の最高の技術者たちによって正保しょうほう2年(1645)から5年の歳月をかけての大造営事業であったそうだ。このたび「本堂棟札むなふだ」「伽藍総絵図」「平瓦」等の五件も重要文化財の附つけたり指定に追加された。

< こころの文化財>

 建造物やお仏像にあわせて長谷寺について忘れてはならないのは、日本人の精神史とか文化史に刻まれ続けてきた長谷寺の重要な意義についてである。
 先ず地理的に見ても、初瀬はやまと大和三山さんざんにかこまれた古都飛鳥あすかに隣接し、高松塚古墳もすぐそばにある。つまり、わが国の最古の都市の一部なのである。「こもりくの泊瀬はつせのやま」ということばは『万葉集』や『日本書記』などにしばしば見られるように、この地は長谷寺建立の朱鳥元年(686)のずっと以前から古代人のこころに生きていた。その地に長谷寺が建てられ、十一面観音像が造立され、さらに深く日本人の心の原点の役目を果し続けるのである。今日こんにちまで何度も雷害で火災に遭いながら、さながらフェニックス(不死鳥)のように巨大な尊像が造立し続けられたのはなぜか。まさに日本人のこころのふるさとを消滅させるわけにはいかなかったのである。
 日本人のこころのふるさとといえば、名にしおう伊勢の大神宮さまであるが、長谷の観音さまと伊勢の天照大神あまてらすおおみかみとの関係も古来から言い伝えられてきており、本地垂迹説ほんじすいじゃくせつが学者によって言われるずっと以前から、長谷と伊勢の密接な関係が日本人のこころの中に言われ続けてきたのである。要するに大昔から日本人は、お伊勢さまにお参りするのも長谷の観音さまにお参りするのも全く同じ意味をもっているのだ、と受け止めて、その両方ともを自分のこころのふるさとだと思い続けて生きてきたのである。

 古代のロマンに満ちた古都の一角いっかくに、静かなたたずまいをたも保ちつづける長谷寺。日本人の共通のこころのふるさとである十一面観音さまは、いまなお現代の私たちにあたたかいほほえみ微笑をお示し続けておわすのである。

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