VOL.9 ミャンマーの現状に思う

真言宗豊山派総合研究院 院長 加藤精一

  このたびのミャンマーの軍事政権に対する民主化運動のデモで、わが国の報道写真家長井氏が混乱の最中に射殺されたことは、かえすがえすも残念なことであり、長井氏のジャーナリストとしての勇気を評価するとともに、心から御冥福をお祈りするものである。こうした事件のために今後の自由な取材活動が妨げられることのないよう心から願ってやまない。

 

  軍事政権が反政府デモの武力弾圧に踏み切ってから半月(10月13日現在)がたったが、新聞の報道するところでは、政府側から民主化運動の指導者アウン・サン・スー・チーさんとの対話を提言するなど、一応柔軟な姿勢をとっているようである。しかしこれも国連安保理や国際世論の反発をかわす目的も強いのではと見られるので、実際にどれだけ対話が進むのかは不明であるという。事実、一部の民主活動家は拘束されたままで、デモのリーダーとしてはたらいた僧侶たちも政府の施設に監禁されているという。(10月11日付 読売新聞)
  一方、国連の安全保障理事会では、米英仏の三ヶ国が、ミャンマーの軍事政権による反政府デモの弾圧に対して「強い遺憾の意を示す」という趣旨の安保理議長声明案を準備したが、これに関しては中国がミャンマーの軍事政権への制裁に反対する立場をとっていることから、なかなか簡単には進まない見通しのようだ。中国自身も人権・民主化では、種々の問題を抱えているだけに、国連といえども内政干渉してほしくないのであろう。

 

  さて、こうしたミャンマーの現状について、私たち仏教徒として言わなければならないことは、ミャンマーの仏教会や僧侶がたが無事に元気で毎日を過ごしてほしいということである。今回の事件では、僧侶がたは民主化運動に同調して多数の僧侶がデモに参加し、あるいはデモを率いて運動されたが、その行動の原動力となっているのは、軍事政権に対抗するという政治的な意図ではなくて、一般民衆の心の自由と平和をとり戻したいという仏教的な願いからのものではないかと思う。
  仏教の目指すところは、人間の内心の真の自由と平和なのである。これは、釈尊以来の変わらぬ柱であり、仏教の教理もその柱にそって形成されている。その目的は政治ではない。政治活動をしたいなら、ためらわずに政治家をめざすべきである。僧侶の使命はあくまで人間の心の開放であり、心の自由であり、心の安定なのである。当然のことであるが、この目的を実現するためには、政治や経済や文化など、各方面からの協力が無ければならない。

 

  現在の日本の仏教徒は、戦後、自由と平和を保障されてきているが、このためには、大変な犠牲が払われた。敗戦の傷を代償に得た自由と平和である。しかし、戦後六十年を経て、心の自由と平和にさえかげりが見え出した。緊張がゆるみ、人間本来の姿を見失いはじめたのである。まさに世の中は諸行無常であり、すべてはうつろっているのである。
  ミャンマーの仏教徒各位は、軍政のもとで宗教活動はどのようにされているのであろう。軍事政権は、ミャンマーの伝統を背負っている仏教会には弾圧を加えていないようにみえるが、さだかではない。仏教徒各位は、十分に気をつけて、力を養ってもらいたい。真の心の自由と平和の実現のために、頑張り続けてもらいたいと思う。政治的にではなく、仏教的に国民とともに生き抜いてほしいのである。/p>

  いくつかの日本の仏教界の組織では、ミャンマーの軍事政府に対して抗議文を送ろうと呼びかけている。もし、他の多くの非民主化の諸国にも抗議し続けるならば、それも一つの意志表明であろう。しかし、いまは上記のように、ミャンマー仏教の将来について、もう少しくわしく把握して考え続けることこそ必要なのだと思う。何もしないでよいというのでは決してない。もし、何も考えることなく日々を送ってしまうのでは、僧侶の資格はないのである。

 

平成19年10月13日



※本頁の肩書きは、寄稿いただいた当時のものです。