VOL.15 壁を立てる宗教、壁を低くする宗教

真言宗豊山派宗務総長 星野英紀

  新しく選ばれた某国指導者が隣国との国境に数千キロメートルにわたって壁を立てるといって物議をかもしています。壁とか塀というものはいったい何のために立てるのでしょうか。基本的には自分たちと他者とを区別するためです。そして自分たちを護るためでしょう。

 

  宗教にも、壁をたてる宗教があります。壁をたてる宗教とは、ある特定民族しか信者として認めない宗教、きわめて特殊な教理を堅く信ずる人しか信者に認めない宗教のことです。

 

  しかし、なるべく壁をたてない宗教もあります。仏教がその典型です。我が真言宗も基本的には壁をたてません。仏教は日本ではなく、古代インドで生まれました。今から二千数百年前にお釈迦さまにより始まった宗教です。はじめは古代インドのごく限られた地域の人たちにのみ信仰されていました。地域という壁のなかの宗教でした。しかし次第にインドを超えて広く東西世界に広まりました。

 

  もし仏教がインドの一地域しか広まらなかったら、それはインドの狭い地域という壁に囲まれた地域宗教でしかなかったのです。ところがそれは世界中に広まりました。広くさまざまな人たちの支持をうるには、地域とか民族という壁を取り除かなければなりません。壁や塀などはまったくないとはいえませんが、仏教の場合は、あったとしてもその壁や塀はとても低いものです。これが仏教の特徴です。

 

  草木国土悉皆成仏そうもくこくどしつかいじようぶつという仏教語があります。草、木、国土といった人間でないものもことごとく、すべて仏になるという意味です。人間同士はもちろん、人間と自然界、人間と無生物の間にも基本的な差がないという主張です。仏教の基本は、壁や塀をまったくたてないということです。我が真言宗宗祖弘法大師は、その著のなかで「六大無礙にして常に瑜伽なり」(「即身成仏義」)という詩句(偈)をお書きになっています。「この世のすべての存在の間にはへだたりなどなく、すべてが自由にき来している」といった意味です。存在と存在の間には境がないのです。あるいはまた弘法大師は次のようにもおっしゃっています。「草木またじようず何にいわんや有情うじようをや」(草木さえ成仏するのだから、どうして人間が成仏しないことがあろうか。」(「うん字義」より)

 

  真言宗の信仰の極致は、つまるところ、私たちの中に仏さまが入ってこられ、一体となることです。これは簡単には成就できない難しいことですが、その境地を理想として毎日努力をして、ステップアップをめざしています。私たちのなかに仏が入ってこられるには、どのようなことが必要でしょうか。こちらの身体のなかが空っぽである必要があります。仏さまが入ってこられる余地が必要です。自分から自我を取り除き、からにする必要があります。自我の中心とは欲望です。欲望を除去するのです。お釈迦さまの時代から欲望を滅することが仏教修行の最終目標です。

 

  弘法大師は別のところで、次のようにおっしゃっています。「むなしくきて満ちて帰る」(「性霊集」)。こちらを空っぽにしなければ無上の至福など手に入らないということでしょう。それに向かって日々進むことが私たちの歩みでなければならないのです。

 

平成29年3月1日