真言宗豊山派宗務総長 星野英紀
近藤卓さんという学者の書物に『死んだ金魚をトイレに流すなーいのちの体験の共有』(集英社新書、2009)という面白い本があります。近藤さんは、各地で講演をするたびに「もしあなたは、飼っている金魚が死んだらどうしますか」という質問をして歩くのだそうです。そうすると日本では金魚のお墓を建てると答えた人が一番多かったのですが、最近では、「生ゴミに出す」、「猫に食べさせる」という答えもあるそうです。その中の極めつきは「トイレに流す」という回答もあったそうです。かわいがってきた金魚をトイレに流すとはどういう考えなのか、私も、近藤さんの本のこの下りを読んだときにはいささか愕然としました。
私の場合、ごく最近までウサギを二代にわたり自坊で十五年ほど飼っていました。死んだ時は、老人である私たち夫婦、壮年期に入った子供たち家族全員が悲しみ、懇ろに通夜を行い、お寺の墓地の一角に埋めてあげました。墓参りまでしています。ほぼ全員が多少ともペットロス症状になりました。これが金魚でも当然お墓を作ってあげたと思います。トイレには絶対流しません。
ところが近藤さんが、カナダで講演会をして金魚のお墓の話をしたら、カナダ人は日本人のその行為にびっくり、カナダではトイレに流すことが普通だという話だったそうです。さらにフィンランド人の場合は、日本人の行為に理解を示したそうです。つまるところ、文化の違いということです。イルカや鯨を食べる日本人は残酷だという非難はしばしば報道されています。
仏教的にはどうなのか。大乗仏教では「山川草木 悉有仏性」といいますから、動物、植物、無生物すべて仏性があるという立場です。宗祖弘法大師空海も「草木また成ず 何に況んや有情をや」つまり、「草木さえ成仏するのだから、どうして人間が成仏しないことがあろうか」(『吽字義』)とおっしゃっています。つまり人間も草木も動物もさらには無生物でさえもすべて成仏できると明言しておられます。これはおそらく真言宗だけの立場ということではなく、大乗仏教全体に共通したことだと思います。
かわいがっていたペットが死んだとき火葬にしたのであるが、そのお骨を自分の家の墓地に埋めていいかどうか、ということが話題になることがあります。私の寺では同じお墓に入れていいですよ、と言っています。それは大乗仏教の教えからも問題ないと思いますし、いまのペットはコンパニオン(仲間)と言われたりして、家族の一員になりきっています。ですから、家族のお墓に入れるのはなんの問題もないと思うからです。
『死んだ金魚をトイレに流すなーいのちの体験の共有』の著者近藤さんは仏教的動物観を説明するために、その本を書いたわけではありません。近藤さんはカウンセリングの専門家です。近藤さんはペットが死んだときに、懇ろに弔ってあげるということは、子供の経験として大切なことだという立場です。ペットの死ということは、子供たちにとっては身近な存在の死ということを始めて体験する時なのです。そのときに家族全員でそれを弔い、その結果、身近な存在の死という一種の心理的な“危機”を乗り越えるということが、子供の将来にとってどれだけ大切なことであるか、と近藤さんは主張します。
大乗仏教の“いのち”感は、現代の心理学者が主張することを遙か昔から形を変えて教えてくれていたということになると思います。
平成29年9月1日