三祖

専誉僧正

誕生と少年時代

誕生と少年時代

 豊山派の派祖となった専誉僧正は、戦国時代の享禄3年(1530)、 泉州大鳥郡(せんしゅうおおとりのこおり) (現在の大阪府堺市)に生れました。
 幼名を 安鶴丸(あんつるまる) といい、父は 石垣長経(いしがきながつね) 、母は観音信仰の篤い方でありました。
 天文7年(1538)、安鶴丸が9歳のとき、父に連れられて根来山に登り学頭であった 妙音院玄誉(みょうおんいんげんよ) の弟子となりました。12歳のとき父が家来に毒殺され、無常観を深めた安鶴丸は、天文11年(1542)13歳で剃髪得度し、名を専誉と称するようになりました。
 正式に僧侶となった専誉は、いよいよ仏教の勉学や修行にはげみました。

受法と講学

 20歳のとき、東大寺の戒壇院で具足戒を受け、続いて南都・醍醐・三井・比叡山などの各山で勉強し他宗派の奥義を極めました。再び根来に帰ってくると、そのときの 能化(のうけ) であった妙音院 頼玄(らいげん) から高い評価を受け、専誉は 脇能化(わきのうけ) に抜擢され、多くの僧侶たちの指導にあたりました。
 天正12年(1584)8月11日、専誉は54歳で能化に就任しました。このころ根来山の所領は七十万石にのぼり、僧侶六千人、そのほかに多数の僧兵を抱えていました。天下統一をはかる羽柴秀吉が降伏を勧めたところ、僧兵がこれに応じなかったために攻撃され、二千七百余の堂塔は一夜にして灰燼に帰してしまいました。
 能化の専誉は多くの学徒を率いて高野山にのがれ、次いで京の醍醐寺に身を寄せて講義を続けていました。

長谷寺入山

真言宗豊山派

 当時の大和長谷寺は観音霊場として天下に知られた名刹でありましたが、中世以降、幾多の戦禍に遭い甚だしく荒廃していました。
 この頃、大和守であった豊臣秀長は高徳の僧侶をむかえて長谷寺の復興をはかろうと考えていました。
 そこで醍醐寺に身をよせていた専誉を長谷寺に招き入れたのです。
 やがて学徳を慕う学僧たちが全国から集まり、かつて根来に栄えた真言の教学は、初瀬の長谷寺で再び花を咲かせはじめたのです。

新義学山としての興隆

 専誉は、ただひたすら学問の講義と修法を続け、多くの僧たちを指導しましたが、慶長9年(1604)5月5日、75歳で入寂しました。長谷寺に在山して18年が経っていました。
 この時期から長谷寺は南都興福寺から離れて、法相宗から新義真言の根本道場に転じ、学山として栄えました。
 長谷寺は正式には 豊山(ぶさん) 神楽院(かぐらいん) 長谷寺(はせでら) と称するところから豊山派の名がおこり、専誉僧正が豊山派の第一祖となりました。