VOL.7 ローマ法王の逝去を悼み 宗教について考える

真言宗豊山派総合研究院 院長 加藤精一

  ローマ法王ヨハネ・パウロⅡ世が84歳で逝去された。平和を願う宗教者の一人として心から哀悼の誠を捧げたい。故法王は、四半世紀にわたる在位中に104回の外遊をこなし、“空とぶ聖座”といわれ、精力的に各国との友好を築こうと努力されたという。その熱意にはまことに敬服する。法王は、かつて日本にも足を運ばれ、わが真言宗豊山派管長猊下も三回にわたってバチカンを訪問された。もちろんこれらは双方ともに表敬訪問であり、友好親善以外のなにものでもなかった。なぜならば、日本は神道と仏教の国であり、カトリックの国ではない。宗教を離れて眺めれば、バチカン国の元主は、心の温かそうな、温厚な人物で、好ましい印象が強く残っている。
  さて、こうした法王の願いにもかかわらず、世界の大国の中で、法王の訪問をかたくなに拒んだ国もある。中国である。私は法王の宣教の熱意に感心すると同時に、中国共産党政府の筋の通しかたにも感心している。そしてこの事実は、いみじくも共産主義とキリスト教との根本的な違いを浮きぼりにしている。神話の神を信じる人々と、それを認めない人々。この相違は決定的であり、両立することはあり得ない。
  私たち日本人の多くは仏教徒であり、同時に神社の氏子でもある。日本において仏教は、伝来から聖徳太子や聖武天皇などの努力によって健全な発展をとげ、1500年後の今日に至るまで、日本人の精神生活を神道と共に支えてきたのである。いわば、日本人の心の中には、神道のカミと仏教のホトケが共存しているというわけである。二種類の宗教が混然一体として続いているこうした状況は、特に西洋の一神教の人々にはなかなか理解し得ないのである。一部の人々は、日本人はいまだ個人が確立していない未開の状態であるなどと評しているが、わが国ののびのびした安らかな、おおらかな精神生活を驚きの目で見ているのである。私たちは四季おりおり、年中行事のおりおりに、神社や寺院に参詣し、敬虔にお参りし、春秋の彼岸やお盆には、こぞって先祖の墓参りを続けている。カミとホトケと自身との間をご先祖がとりもってくれているというすばらしい広さがある。たとえ宗派が違っていても、少しもさわり無い。みな人間同志のお仲間なのである。こうした日本人の心の広さはどこから来るのであろうか。神道の広さと仏教の広さによると思う。
  仏教は、今から2500年前にインドに出生された釈尊の叡智によって無我の立場をとり、中道をめざすことを目標としている。無我の立場とは、神話の神を否定することも肯定することも必要としないのであって、それらとは異り、最高の人格―ブッダ(覚者)を尊び、帰依して生きてゆくのである。この世のものはすべて因と縁によってできていると見るわけで、そこには神の存在は必要ではない。釈尊の教えには、迷信や妄信を棄てて、自からよく考え、最も正しいと思われる仏道を、敬虔な気持で、かつ勇気をもって進んでいくという人間開放―ルネッサンスの精神が根底にあるのだ。
  日本の神道にも神話があるが、他の一神教と異って、日本人はそれを自分たちのなつかしい先祖の物語として受け取っており、この点で仏教と神道とはさまたげが無い。
  世界平和に貢献された法王のお心を生かして、キリスト教徒の各位が、自分たちの神を信じない人々や、神の存在を肯定しない人々とも心を開いて相手の立場を容認できるようになれば、世界の平和も実現の可能性があるが、これは一神教の教理からみて仲々困難なのではないかと考えるものである。



平成17年4月6日



※本頁の肩書きは、寄稿いただいた当時のものです。