VOL.12 光明真言の救い

真言宗豊山派総合研究院 院長 加藤精一



  真言宗の法要では、経典の読誦に加えて、しばしば光明真言を唱える。元来、真言密教の重要な特色は、心に両界曼荼羅を開いて大日如来を思い、手に印契を結んで諸尊及びその所作等を表わし、口に真言(ダラニ)を唱えて仏の功徳を願い祈るという、いわゆる身口意の三密の修行を行ずる点にある。光明真言は、多くの真言ダラニの中でも、最も親しまれていて、真言宗の法要の象徴のようなものである。

 

  真言ダラニは、いわゆる呪文とは全く異質なものだと考えられる。学者の研究によれば、呪文というのはその意味が全く不明のものが多いのに対して真言ダラニはサンスクリット語の原語に、ある程度置きもどしてその意味をうかがうことが可能だという。(田久保周誉博士『真言ダラニ蔵の研究』)しかし真言密教では、古来から、真言を翻訳したり、細かい字句の意味を 穿鑿せんさく したりせずに、その大意をつかんで、ひたすら無心に唱えるように指導してきている。

 

  光明真言の大意とは、不空真実なる大日如来の光明によって私たちの暗い心が明るく転じますように、というほどのことであろう。まさに暗い、失望の心に一筋の光が射し込んで、生きる勇気と力を与えてくれるのが宗教の醍醐味に違いない。

 

  次に注意しなければならないのは、大日如来というほとけさまのことである。

 

  わが真言宗の宗祖と仰がれる弘法大師(空海774-835)は、31歳の夏に日本を発ち、遣唐船に乗って入唐され、恵果和尚から密教を授かり、33歳で帰国したが、その際に両界マンダラ(金剛界と胎蔵法の二幅)を持たせてくれた。弘法大師はこれをもとにしてこれを人間の心の種々相に展開して、「十住心思想」を構築された。大師はマンダラをただ拝んでいただけの人ではなかった。あらゆる人間の心のありようを十種に分け、それらすべての共通の地下水脈の存在することを示したのである。その共通の地下水脈こそ、両界マンダラの中央にそれぞれ位置している大日如来なのである。いいかえれば、大日如来こそ、他のあらゆる諸尊の原点に相当するのであり、あらゆる価値は大日のあらわれにすぎないともいえるのである。

 

  太陽の白光が七色の虹となって私たちの眼に映るように、あるいは同じ太陽の光が何十万の星の光となってまばたいているように、大日如来は、無数の仏・菩薩・等の諸尊に身を現じて私たちを救ってくれるのである。

 

  たとえばここに、多くの門のある大きな花苑があるとしよう。私たちはその多くの門のうち、たとえどの門から入っても、同じ花苑の美しさを賞でることができるのである。これを「一門普門」といって、マンダラの中尊大日如来の功徳にたとえるのである。私たちはたとえどのような神仏を拝んでいても一向にさしつかえない。阿弥陀さまでもお薬師さまでも、観音さまでもお地蔵さまでも、八幡さまでも天神さまでも、ご縁のある神仏を自由にお参りして結構なのである。心の中心にマンダラを置いていさえすれば、人々は違うものを拝みながら、共通の根っ子を持っているお仲間になれるのである。弘法大師のご努力によってマンダラ中央の大日如来は、平和と共存の象徴になっているのである。

 

  光明真言は、こうした広々とした大日如来の光が私たちの心に射し込んでくれるようにとの願いをお唱えするのである。私たちの心はひとりでに広々となごやかな状態に変化していくに違いない。

 

  どうぞ檀信徒の皆様も、ご法事の際は、光明真言をご一緒にお唱え下さいますように。

 

平成22年4月8日



※本頁の肩書きは、寄稿いただいた当時のものです。