総合研究院 院長 平井宥慶
今年の天候不順は、異常を超えて激烈、その被害援助を目的とした法律に「激甚災害に対処するための特別の財政援助等に関する法律」とその「施行令」というのがあるが、まさしく文字通り「激甚」そのもので、被害も物資の面は言うまでもなく、人材の損失が甚だしく、被災された方々へのお悔やみといっても、言葉を失う。
わが日本国の領土の成り立ちから山岳部が多く、そこに1億余の国民が暮すという条件の下で、いきおい開発が山際に進まざるを得ないのは必定、と考えられるが、その安全を保持すべき施策が開発の進度に伴わず、とうとう残念なことになってしまった、というところがあるようで、失われた生命はもはやいかんともいたしかたないのか!その災害はあっという間の出来事、と思うと、一片のお慰めの言葉など、とても申し上げられない。只々出来うるならばおそばに寄り添い、こみあげる無念の想いをいだいて、ともに 首 を垂れる以外になすすべがない。
思えばお大師さま48歳のみぎり、讃岐国満濃池の修築に従事、3ヵ月をもって完成せり。四国という島は決して大きくないが、峻高なる山々立ち並びて、川は山から海に直に注ぐ如く、まるで滝のようだと評せられるほどであった。ことに香川県は、山岳地帯から直ちに平野部になり、なったかと思うと即座に海に落ちてしまう、保水の余地がきわめて少ない地域であった。流れの勢いの調整、農業に必要な灌漑能力を高める造作、これに「池」の創作は必須であったが、当時の技術は、その水量を維持出来るだけの能力に及ばなかったのである。満濃池は造ると決壊を繰り返し、ここに唐からの技術革新を期待されてか、お大師さまに白羽の矢が立った。
3ヶ月とは、本格的な雨季の来る前に完成させねば意味が無い。そのために二昼夜交代制をとり、昼夜分たぬ作業の体制に、その間お大師さまはといえば、池のほとりで不断の大護摩厳修であった。火など燃やして何の足しになる、と言い出しかねない現代の即物主義に、この火がどれだけ作業人の意気を奮い立たせ、そして里人の心に希望の灯となったか、強調しても、し足りない。里人も見ていただけではない、所思万端取り揃える。その証拠に、いつ出来るかもわからぬほどの工期が、3ヶ月で出来たのである。その満濃池、今に機能している。
こんな人材を、現代に望んでも無理かもしれないが、一刻も早く防災工事に着工するよう、言える誰かがいなかったものか、と悔やまれることしきりである。「現代」とは厄介なものである。何かするにも1年毎の予算があり、無いときには何も出来ぬ。重点的に、というアイデアが謂われることがあるが、バランスを崩すなどと、平時にはなかなかそれも出来ぬ相談、となる。今「激甚」予算を使うなら、あらかじめ使えば、と素人は思うが、国レベルになるとそうもできないのであろうか。
避難所ができる。そこに退避して、皆さん、調和を忘れないように願うばかりである。聖徳太子の「和を以って貴しと為す」である。お釈迦さま「ほとけ、半坐を分ちたもう」という言葉がある。ガンジス川のほとりで、渡船の来るのを待つ間、込み合う隣人に声掛けしたという。「半」は半分ではない、大半の「半」である。但しご自身もきちんと坐る、皆平等に、である。皆さん一分を譲ることで、全体に余裕が生まれる。余裕は、思慮する時間になる。思慮すれば誰もが、常識を取り戻せるのだ。
日本は良いも悪いも島の国、この数多くの島々を基点に活きるわたくしたち、運命共同体の気持ちを大事にして、 生命 の共鳴、を奏でたい。そして出来得れば、世界の紛争地にまで、 生命 の共鳴を、と想う。曼荼羅のこころである。地球はこの広大な宇宙にたった1つ、そこに70億の多彩な人間が乗船している唯一の宇宙船、いまこそ、この「共生ともいき(ともにいきる)」の心持ちが求められている時代はないのではないか。
平成26年10月28日
※本頁の肩書きは、寄稿いただいた当時のものです。